大村智氏は特許料で北里大学北本メディカルセンターを北里研究所へ提供!教授を辞し北里研究所病院経営を選んだ経歴とは?
2015年10月9日(金)19時30分~
特報首都圏
「地方大学からノーベル賞へ~2人は何を学んだか~」
と題してNHKで
2015年ノーベル賞受賞をした
大村智教授と、梶田隆章教授が
それぞれ山梨大学、埼玉大学
の出身であることで
二人とも地方大学出身の共通点を
尾木ママがコメントします。
東大や京大出身ではないことで
共通点がありますが、
意外にも、大村さんと梶田教授の
共通点は埼玉県にもありました。
梶田教授は埼玉県の出身
であることですが、
大村さんは北里大学名誉教授
でもあり、
北里研究所の所長を経て、
埼玉県北本市に北里メディカルセンターという
北里研究所病院を大村さんがイベルメクチン特許料で建設しました。
今では埼玉県でも有数の大学病院の1つとして
埼玉県の医療に貢献しています。
なぜ大村智教授は北里大学の教授を辞して
北里研究所の所長についたのでしょうか?
大村さんが掲げる社会貢献、恩返しの精神を
大村さんの経歴を通して見ていきたい
と思います。
大村智氏は特許料で北本へ病院建設し、北里研究所を経営再建!異色の経歴でノーベル賞受賞!
大村さんの大学を卒業するまでの経歴は
- 1935年 山梨県韮崎市生まれ(父 農家 母 教員)
- 1954年 山梨県立韮崎高等学校 卒業
- 1958年 山梨大学学芸学部自然科学科卒業
ということで、
普通の公立高校を卒業し、
地元の国立大学へ入学し
卒業をします。
ちなみに韮崎高校はサッカーが有名で
中田選手の母校でもあります。
大学卒業後の経歴は
- 1958年 東京都立墨田工業高等学校教諭
- 1963年 東京理科大学大学院理学研究科修士課程修了
- 1963年 山梨大学文部教官助手
ということで都立工業高校の教師を
スタートしますが、
大村さん自身が不勉強を感じ、
東京理科大学で
当時の最先端化学を
学びます。
東京理科大学
修士課程を修了し、
母校の山梨大学工学部
発酵生産学科で
助手のボストが
用意されていました。
化学を学んできた
大村さんですが、
発酵技術見て、
微生物の可能性に気が付きます。
その後の経歴は
- 1965年 (社)北里研究所技術補
- 1969年 北里大学薬学部助教授
- 1971年 米国ウェスレーヤン大学客員教授 (留学)
- 1975年 北里大学薬学部教授
- 1984年 (社)北里研究所理事・副所長
- 1990年 (社)北里研究所理事・所長
という具合に、
北里大学の研究所の一員として
研究の道を歩みます。
1969年から北里大学
薬学部助教授を経て
米国ウェスレーヤン大学
客員教授のポストが
用意されるような好待遇で
留学をします。
ここでアメリカの製薬メーカーとの
出会いがあり、
大村教授の保有特許の使用権を
製薬メーカーへ渡し、
売り上げに応じて特許料が
支払われる契約を結んで
北里大学教授として
帰国しています。
アメリカの潤沢な研究費と比較すると
北里大学といえども
十分ではなかったので、
自力で資金源を構築して
北里大学へ
恩返しをしていきます。
そのまま北里大学の教授として
好待遇を享受するのが
普通ですが、
北里大学を創設した
北里研究所の経営が行き詰っている
状況を見た大村さんは、
北里大学の教授ポストを捨て、
経営の立て直しを志して、
北里研究所の副所長
に就任します。
大村教授はイベルメクチンの
特許料などの私財を
北里大学の病院建設費に
投じます。
ノーベル賞受賞した大村智北里大学名誉教授が特許料で建築した北本の病院はどこ?
建設されたのは埼玉県北本市にある
北本メディカルセンターです。
1989年に開設されて
1994年には440床の
入院施設のある、
北里研究所の病院として
地域医療に
貢献しています。
病院の場所はどこかというと、
所在地:埼玉県北本市荒井六丁目100番地
絵がある病院でも
有名ですが、
これも大村さんが
絵が好きであることから
発案されたものです。
大村さんが北里学園や
北里大学を創設した
北里研究所の経営が
悪化しているのを見て、
見事に再建させた
経営の手腕についても
世のため人の為という精神が
根底にあることが
素晴らしいです。
イベルメクチンの特許料で
病院を建設し、北里研究所へ
提供するなど、
大村さんの経歴を見ていると
私利私欲や営利目的で
活動しない人柄には
感動を覚えます。
大村教授が微生物を研究するきっかけになった経歴についてはこちら!
をご覧ください。